清州は、昔から両班の地元、士の精神が生きている地元、文化教育の都市だと言われてきた。清州がこのように言われてきたのは、千年の歴史を続いてきた伝統都市で、多くの文化遺産と人材を輩出してきたので可能だった。

 かつて、清州は、統一新羅時代から教育を通じて人材を養成して来て、高麗時代には、世界最古の金属活字本「直指」を誕生させ、我が国の地方自治の嚆矢である西原郷約を作った場所である。又、国が苦しかった時期には、自分の命を惜しまず、身を尽くした民草らの精神が、どの地元より強く生きている所である。このような由緒深い伝統を引き受けて、清州は最近、航空エクスポ、国際工芸ビエンナレ、「直指」を媒介にした印刷出版博覧会などを通じて、新しい文化を創造して行く力動的な都市へ変貌している。
 〈2000年持続可能な都市大賞〉評価で、韓国都市の中、総合1位を取り、大統領賞を受賞したのもこのような努力の結実である。


大韓民国の忠清北道清州市興徳区雲泉洞ヤンビョン山のふもとに位置している興徳寺址は、世界最古の金属活字本「直指」を刊行した所だ。
 清州市雲泉洞一帯は、かつて新羅末期から仏教文化の花を咲かせたと推定される多くの遺物らが発見されたし、昔寺址もあったが、文献に著していないので、地表調査さえ存分に実施されなかった。そうするうちに、1984年12月から韓国土地公司が雲泉地区宅地開発事業を始めながら清州大学校博物館(団長キム ヨン ジン)が、雲泉洞寺址発掘調査を進行した。

 当時、発掘調査団が、周辺の遺跡地に関する関心を持ち、しばしば調査を行った中、雲泉洞寺址の西南方からそれほど遠くない所の蓮塘里カカン村515−1番地の民墓周辺に花崗岩でしっかりと整えた円形と方形の礎石3、瓦、高麗時代のものと推定される鴟尾片及び蓮花紋又は唐草紋が刻まれた瓦片を収拾するなど、今まで全く知られなかった新しい古寺址を見つかったのである。
 しかし、惜しいことに、工事が進行されながら、この寺の中心建物に当たる金堂址の遺構がある所まで、既に土を搬出し、宅地を造成するによって、寺の原像をたくさん毀損させ、遺構が破損されただけでなく、一部遺物らが遺失されてしまった。

 忠清北道文化財委員会は、1985年この寺址に対する緊急発掘を決意し、忠清北道は、その年、7月文化財管理局の発掘許可をもらい、10月まで清州大学校博物館で、毀損されなかった残存した西盤部の地域を対象に全面発掘調査を行った。
 寺址の発掘結果、ここにあった寺は、大略9世紀に創建され、14世紀末又は15世紀初まで存続していたし、火災によって、喪失された後、完全に廃寺されたと確認された。寺址の東盤部が既に破壊された状態で発掘調査が実施されたので発掘結果確認された東南方の一部が損傷された金堂址、そして、原像がわりと多く残っていた西回廊址と回廊址の末についていた薄?建物址など、主に全体寺域圏の西北盤部地域であった。しかし、寺址の性格上、左右対称で建物配置をしたと推定された。
 そうするうちに、発掘調査をほとんど終えて、周辺を整理していた1985年10月に、宅地工事で毀損された寺址の東方から‘甲寅五月日西原府興徳寺禁口壱座’という名文がある青銅禁口と青銅佛器などが出土され、この寺址が、つまり高麗?王3(1377)年に現存する世界最古の金属活字本で、世界記録遺産である「直指」とその時期を前後して「慈悲道場懺法集解」を印刷した興徳寺址であるのが明らかにされ、青銅小鐘と興徳寺と言う名文がある禁口片など青銅遺物が多量収拾された付近で、青銅宝幢2点を始め、佛鉢など様々な青銅遺物を発掘する成果を上げた。

 特に、その中で、青銅佛鉢の口縁部外側面には〈皇統十年庚年四月日興徳寺依止重大師領仁往生浄土之愿佛鉢一盒具?雲口入重二斤二両印〉という40字の名文が刻まれていて興徳寺址を再確認するのに決定的な資料となった。
 〈皇統十年庚年〉は、高麗の毅宗4(1150)年に当たり、この一帯で一緒に出土された遺物らの年代推定は、勿論、興徳寺の沿革を明らかにできる重要な資料にもなる。興徳寺址を始めに確認させてくれた興徳寺と言う名文がある禁口片の残り部分が1986年6月に発見され、国庫に帰属されることによって、8ヶ月ぶりに原形を成したが、その部分の側面に連続された名文の全文は、〈甲寅年月日西原府興徳寺禁口壱座改造入重三拾弐斤印〉であった。
 興徳寺の配置は、南向の単塔伽藍で、中心軸線上に中門塔金堂講堂があり、これら左右に東西回廊が回れた三国時代以来の伝統様式を従い、各建物らは、後代に重修を繰り返しながら、少しずつの変化があったと推定された。その後、1987年から1991年まで、正面5間、側面3間、重ね軒八角屋根の金堂と3層石塔を復元し、回廊址と講堂址は、礎石が露出されるように芝を植え、整備をした。